飛田新地の知られざる嘆きの壁の歴史

飛田新地の嘆きの壁とは?

飛田新地の歴史は深く、大正時代に現在の形となり、店舗数の増減などもありながら今もその姿を残している。
飛田新地は戦後赤線とも呼ばれ、有名な売春町ともなっており、さまざまな女性がここで働いていたことでしょう。

その女性の中には、借金の肩代わりや、危ない筋の組織と関わってしましやむなく働かされたり、といろんな事情があったと思います。
中には脱走を働く女性もいたことでしょう。

しかしその脱走を防いだのが、この嘆きの壁だと言われております。

飛田新地は四方を高い壁で取り囲まれており、脱走しようとしても女性の脚力ではとても脱走できません。そこで脱走できずに嘆いたことから「嘆きの壁」と言われています。

壁の高さは約4メートルもあり、飛田新地内を囲っていたそうで、飛田新地の6つある門の内、西側の門だけが開かれていたといいます。

現在でもその面影は残っており、飛田新地の昔の姿が分かるようになっている。

実際に嘆きの壁のおかげで、飛田新地内では昔、脱走などは少なかったとされています。

しかし現在では嘆きの壁の機能はまったく無く、女性の中には気に入らなかったら、すぐにやめてしまう女性もいます。

昔と違い、借金で飛田新地に入ってくることが少なくなっていますし、飛田新地側も女性の扱いに関しましては、とても慎重になっています。
嘆きの壁はまったく昔のもので、現在では知る人のほうが少ないでしょう。

嘆きの壁の向こう側とは?

嘆きの壁を越えると、今はどのようなことになっているのでしょうか?嘆きの壁は今はほとんどが取り壊されていますが、飛田新地の東側にはその姿が残っています。

そしてそこを越えると、阿倍野区の住宅街が広がっています。高層マンションが立ち並び、とても近代的な姿になっています。

そしてさらに先には高級住宅街も広がっており、飛田新地とはまた違った雰囲気の町並みが現れます。

今ではその高層ビルなどの影響で、飛田新地が外部からは見えにくいようになっています。なので嘆きの壁はただの飛田新地とその周りの住宅を区切る壁にしかなっていません。

嘆きの壁は上にも上れますので、そこからは飛田新地を見ることが出来ます。

現在の嘆きの壁

現在の嘆きの壁は、西成区と阿倍野区を隔てており、ただの高い壁になっています。

しかしその壁で飛田新地だと分かるようにもなっています。

今は昔のように、飛田新地を囲む必要もなくなったので、ほとんど機能を果たしていませんが、昔の名残を匂わせてくれる存在になっています。

昔の飛田新地は本格的な売春街で、お金を稼がされている女性が多かったですが、最近では女性側から入ってきます。

それはただ、生活のためにお金が欲しかったり、貯金するためなどという理由の女性が多く、さらにはスカウされて「働いてくれませんか?」という感じで女性が入ってきます。

なので逃げるという概念はあまりありません。

そしてインターネットなどの普及により、外部の情報も入ってきますし、あまり拘束する必要も無いのです。

飛田新地には女性目的に男性が集まってきます。そしてその男性客は嘆きの壁などのことはまったく気にもしないでしょう。

なので情報も少ないですし、知ろうとする人も少ないです。

飛田新地内の人物は取材なども基本的には受けませんし、撮影もNGです。もしかしたら、我々が知ることの出来ない「嘆きの壁」の真相があるかもしれません。

しかしそれは謎のままになっています。

なんにせよこれから飛田新地で働きたいと思っている女性や、飛田新地で遊ぼうと思っている男性には、嘆きの壁はまったく関係ないものになっています。

嘆きの壁は、気にせずに楽しく女性と遊ぶことを考えて、飛田新地に行くことが1番でしょう!